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著者の頭の中の風景が蘇る翻訳のコツ

―さて、こないだの翻訳、これが気に入らなかったのでしょ?

This textbook of internal medicine is aimed at colleagues, medical students and other therapeutic professionals, who, like the author himself, are looking for a healing art with an understanding of man’s body, soul and mind. Presently medical practice is dominated by a pathophysiologically oriented understanding of disease, in which the essence of sick people is not captured.

この内科学のテキストは著者と同じように人間の身体、心、精神の理解を伴う治癒のわざを探している同僚、医学生、諸療法のプロをねらっている。今日の医療実践は、病むひとびとの本質は捉えられていない、病態生理学寄りの疾病理解に支配されている。

一見よくある訳文だけれど…。イメージの順番を不必要に入れ替えていたから、話の順序が変わって頭がこんがらがった。で、どうなった?

日々の積み重ねのみが身につく。

この内科学テキストの対象は、同僚、医学生、療法士、なかでも著者と同じように人間の身体、心、精神の理解を伴う治癒のわざを探し求める方々である。今日の医療実践で優勢なのは病態生理学寄りの疾病理解であり、病む人々の存在の本質は捉えられていない。

―あら、ずいぶん順番入れ替えが減ったのね。気になるところはある?

「療法士、なかでも…のところが、関係詞が限定用法ぽくなってしまって…」

―なかでも、をダッシュにするのも、最近はOKみたい。編集者さんと相談した方がいいと思うけれど。

―書き換えて気づいたことは?

「1文目の終わりにan understanding of man’s body, soul and mindが来ていて、次の文のpathophysiollogically oriented understanding of diseaseとコントラストになっている感じがしました。presentlyの前に“ところが”のニュアンスを感じます。著者がこれはまずいんじゃない?と思っている、そんな気持ちを感じました。」

―そう。人が何かを表現するとき、心が動いていないことなんてめったにない。文章の用向きによってはそれをあからさまに安易に表現するのがはばかられる場合もある。そういうときは文体、レトリック、語順の構造にしのばせる。そして自分の頭の中にある風景がちゃんと蘇るように仕込む。このたった2文で著者が一番気にしているのはなんのことだと思う?

「2文の最後の『患者さんの存在そのものの本質が置いてきぼりになっている』でしょうか」

―私もそう思う。たった2文だから大したことないようだけれど、これが1200ページ積もったらどうなるか…だいぶ読みやすさに差がつくでしょう?

気をつけることはシンプルです。まず構造の通りに読む。返り読み英文和訳で内容を確かめるという人もいるけれど、必ずもとの構造に戻ること。

ご参考までにもとのドイツ語を。構造的には英語といっしょ。もう英独蘭語なんて群馬、栃木、茨城弁みたいなものです。フランス?あれは青森。日本はミニチュアヨーロッパ。

Dieses Lehrbuh der Inneren Medizin wendet sich an Kolleginnen und Kollegen, an Studierende der Medizin und Interessierte der anderen therapeutischen Berufsgruppen, die -wie der Autor selbst- nach einer Heilkunst mit einem leiblich-seelich-geistigen Menschenverstaendnis suchen. Gegenwaertig dominiert im aerztlichen Alltag ein patholophysiologisch orientiertes Krankheitsverstaendnis, in dem das Wesen des erkrankten Menschen nicht vorkommt.

 

似て非なる、シュタイナー教育を「取り入れる」と「基づく」

―シュタイナー教育ってなんだか窮屈。シュタイナー教育だけを純粋にやるより、自分たちに合っているところだけ「取り入れる」のがいいと思うんです。

その窮屈ってどんなところ?

―テレビ見ちゃいけないとか…

あはは、そりゃテレビは出てなんぼだものね(笑)。

でもね、「取り入れる」には気をつけて。いくつか「取り入れている」教育研究所を見かけたのだけれど違和感を覚えてね。部分的にいろいろなものを入れている。剣道、座禅、モンテッソーリにシュタイナー、英会話にリトミック。

―あ、それは変なの、わかります。気持ち悪い。なんでかしら。私たちがやりたいのはそういうことじゃないんです。

でしょ?こういう「取り入れ」タイプの態度がなんだかいやなのでしょ?バイキングでずらりと並んだ食べ物を選ぶみたい。

結局、バイキングの大食いさんは自分の胃袋優先。自分の枠にあったものを選ぶ。あるいは自分の枠を壊す力があるものに出会っても関わりが浅い。

見立ては簡単。浅いタイプが「取り入れた」メソッドの専門家を超える洞察に至ることはほぼ皆無。わかったようなことを言っても洞察ではなく単純化。「なぜ」を繰り返すとたちまち崩壊。

いま窮屈に感じているものの正体はなに?理由のはっきりしない習慣?変化を恐れる仲間?近隣の幼稚園、学校との純粋さ比べ?訳文の難解さに変に麻痺していること?

ならばシュタイナーのせいにするのはとんだ八つ当たり。

いっそマニュアル、ドグマ化しがちな「教育」という具体実践はいったんわきに置いてみたら?しばらくものの見方、考え方といった「抽象」、哲学に重心を移してみたら。

私も3度途中で挫折した「自由の哲学」が今は面白くて仕方ない。1つ読むならこれだ、と何人もの方にすすめられました。シュタイナー自身もそう言っています。音読すると心躍ります。

いちどひとつに決めることです。一度に二つの山頂には登れない。7合目あたり横にうろうろするのはヤギさんかおサルさんです。

シュタイナー医学を学んだ漢方にも詳しい薬剤師さんが面白いことを言っていました。漢方ではなぜこの薬がこの症候に効くのかもちろん独自の説明がある。でも限界もある。例外的症例もある。昔だったらそこから先は行けなかった。でも今はシュタイナー医学のおかげで理由がわかるようになった。だから応用がきく。長年親しんだ漢方を捨てることなく、より自由に活かすことができる。だから有難いって。

この方は「取り入れた」のではなく「基づいている」。いったん自分の枠をはずし、それまでの蓄積を手放す覚悟で飛び込む思いをした。

その結果、逆にそれまでの専門を失うことなく、突破口が開けた。むしろ専門家がいき詰まるような「なぜ」の先に行ける。かえって自由になったって喜んでいる。

さてさて、シュタイナー教育関係の集まりでよく唱えるシュタイナーの詩、 「Beim Läuten der Glocken。鐘が響くとき」難しいという声を聞いたので試訳してみました。

実は私の本棚は英語関係の愛すべき稀覯書でいっぱい。ドイツ語スペースはその1割もありません。でも増やす気もありません。そのかわり、ドイツ語に優れた友人を頼りにしています。ありがとう!この場を借りて感謝します。

さて、本当にシュタイナーがわけわからないこと言っているのでしょうか?

「美しきを讃え、まことを護り、とうときを崇め、よきを為すと心に決める…」

綺麗な全体PDFは下記よりどうぞ。

こんな感じです。続きは以下のフォームよりご覧ください。すぐにDLできます。

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堂々巡りの話し合い、あの方はいましたか?

 教師、保護者みんなでつくるというシュタイナー教育。トップダウンの園長・校長はいない。お仕着せのPTAもない。…と喜んで子どもを通わせているはずの友人が浮かない顔。

「こんなに話し合いに時間がかかるなんて…」
「いつも発言する人が決まってる…」
「結局教師の発言が尊重されて…」

私はその場にいなかったので何とも言えません。でも気になる。その話し合いにあの方はいたのかしら。あの方?噂の●ちゃんママ?いえいえ、違います!

それに「みんなでつくる」って?

まさか、一人ずつ順番に誰もがすべてのことに発言し、等しく重んじられるということ?

まさか、お金アレルギーのある理事がイベントの参加費を下げようとしたり…
保護者が授業内容をはじめから色眼鏡で見て批判したり…
教員が生徒の家庭生活を批判したり…
これらを真に受けて互いに釈明したり…
みんなでチラシデザインうんぬんしたり…

それはたいへんだ。

会議で大事なのは「自分の役割」をよりよく分担するために他者の事情に耳をすませること。「ああ、そちらがそういう事情なら、私はこうしよう。」と自分の行動を修整、確認する。あちら立てればこちらが立たぬ、のときは議論する。

会議が不思議に速い学校があります。ファシリの工夫だけじゃない。もっと深い理由があります。

ここからは「ついていけない」という方がいらしてもごもっとも。どうぞご無理なさらず…

参加者は自分たちだけだと思っていませんでしたか。
自分たちだけで正解を決めようとしてはいませんでしたか。

そこにあの方―大いなる存在―はいましたか。

あなたの心の中に大いなる存在はいましたか。

会議が速い学校はなぜかキリスト教の学校でした。誰もが自分の意見の不完全さをわきまえていた。あの大いなる存在ならどう考えるだろうと思いめぐらしていた。人の話に耳をすませる余裕があった。実は早く帰って夕飯にしたかった!(もしかしたらいい加減だった!)

「その方」の名前は神様でも仏様でも、宇宙でも宇宙人様でも結構。(「自分たちを俯瞰する視点、スペース」だっていい。)シュタイナー様はやめたほうがいいと思います。ご本人様に迷惑です。オシラサマもちょっとねえ。

 For where two or three gather in my name, there am I with them.”
Matthew 18:20) New International Version (NIV)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 1820節)