通訳先生の日常」カテゴリーアーカイブ

日本のビジネスと米国の反知性主義と

ここのところミッションだ、ビジョンだ、と書いています。でも、ビジネスマンもキリスト教で言葉の由来をちゃんと勉強しましょうね、なーんてちーっとも思っちゃちゃおりません!!

知りたかったことはたったひとつ。

日本語でビジネスの話をしていると、キリスト教っぽいカタカナがどんどん出てくる。そりゃ仕事と生きることを真剣に考えるのは大事。でもすごいスピードで無邪気に心の領域に踏み込んでくる人がやたら多い。なんなんだ、それ。だいたい「あなたはお金に関するメンタルブロックを解除しなくちゃね」のような言い方をする。自分が相手を誤解しているのでは、という疑いの余地はどうもあまりないらしい。もちろんカチンと来る。それこそMind your own business.

でも個人どうしの性格、相性の問題ではない匂いがしていました。だって皆さん、ものの言い方があまりに似ている。

だからもっと大きな社会的、歴史的背景がある気がしてならなかったのです。その手掛かりが得られれば個人どうしの問題にしなくてすむ。

あれ?そういえばヨーロッパの人たちはそんなこと言わないなあ…むむむ、やっぱり。

この本を読んでわけがわかりました。お久しぶり、森本先生、これ面白かった!帯は大げさで外れだと思いますけどね。

ICU副学長の森本Henry先生の近著。

反知性主義といっても決しておバカでよいなどという意味ではありません。

確かにこの頃日本では反知性主義という言葉を「まともに考えない。知的でない」というニュアンスで使うことがあります。でもアメリカではちょっと違います。anti intellectualismはインテリと権力の癒着への抵抗をあらわします。まったくもってごもっとも。

ここでインテリというのは科学者や哲学者ではなく教会制度に属する牧師のこと。ヨーロッパで教会は政治権力と結びついて、国費、税金で支えられていました。いいご身分だけれど仲間入りするにはインテリでないと。それでいて下々には「この世は辛いもの。あの世で幸せになるには信心を」と教えていたのですからたいしたもんだ。坊主丸儲け。

それを疑問視する人たちがアメリカではインテリ「牧師」ではなく「伝道者=エヴァンジェリスト」(巡回セールスマンの原型)として活躍。アメリカの教会はあの世だけじゃなくこの世の幸せにも肯定的。本当は不安だらけの成功者たちの心の支えにもなりました。

大いに結構。ただ…それが高じてアメリカはポジティブ病に(大雑把ですみません)。

実は追いつめられて拒食症になっていた高校生の頃、ノーマン・ピールというアメリカの伝道者の本を読みました。ちょっと励まされた。でもあまりにポジティブ、自分中心で、私は相当参っていたのに、なんじゃこりゃ、冷戦と軍拡の80年代にはもう合わないぞと感じていました。なるほど、第二次大戦が終わってまもなくの著作。ところが21世紀の今でもアメリカには彼の影響を受けた輪をかけてポジティブな自己啓発が山ほど。

下山の思想とか「?」なんでそうね。ご苦労様、自己啓発はきりがないよ。特に最新の脳科学なんて言い出すと。ああ、きりながいからいいのか。私は乗る気がしないなあ、悪しからず。

まあとにかく、アメリカでは教会が政治権力を離れ、ビジネスに近づいた。ビジネスは教会の言葉を借りて心の領域に近づいた。それ自体別に良くも悪くもない、ヨーロッパにはない試みです。その残響を日本のビジネス用語の中に聴いていたようです。

ちょっとすっきり。ちょっとだけどね。

 

ヴィジョンとミッション、そしてパッション

「御社のヴィジョンをお聞かせください。」
「ミッションじゃなくてヴィジョンね。えーと…どっちがどっちだっけ?」
なんてこと、ありませんか?

日本語でこんなふうに説明しているブログを見つけました。なんと日本の名だたる企業のミッションとヴィジョンを20もリストしてもいます。

  • ミッション・・・使命、目的、企業の存在意義。会社がどんな社会を実現するのかをあらわしたもの会社内部に浸透させたい考え方で、企業の判断基準にもなるもの。
  • ビジョン・・・目標、方向性、行動指針。会社が組織としてありたい姿や、ミッションを達成させるための行動指針を示したもの。表向きに会社がどういうものかを示したもの

へえ。わかった?
まあ、慣行としてそういうものならそれはそれでいいのですが…

ミッションもヴィジョンもアメリカンビジネス以前にヨーロッパのキリスト教でたっぷり使われてきた言葉。ちょっとニュアンスが違う気が…

聖書でvisionを検索するとこれでもかというくらい出てきます。特に目立つのはダニエル書。預言者ダニエルがバビロンのネブカデネザル王の夢解きをしたり、カルデアのダリヨス王にライオンと共に洞穴に閉じ込められたり…と現代人の常識頭にはなかなか難しい、でも面白いお話です。

ギュスターブ・ドレの美しい聖書挿画集

And it came to pass, when I, even I Daniel, had seen the vision, and sought for the meaning, then, behold, there stood before me as the appearance of a man. And I heard a man’s voice between the banks of Ulai, which called, and said, Gabriel, make this man to understand the vision. So he came near where I stood: and when he came, I was afraid, and fell upon my face: but he said unto me, Understand, O son of man: for at the time of the end shall be the vision.Daniel 8:15-17 King James Version)

われダニエルはこの幻を見て、その意味を知ろうと求めていた時、見よ、人のように見える者が、わたしの前に立った。わたしはウライ川の両岸の間から人の声が出て、呼ばわるのを聞いた、「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ」。すると彼はわたしの立っている所にきた。彼がきたとき、わたしは恐れて、ひれ伏した。しかし、彼はわたしに言った、「人の子よ、悟りなさい。この幻は終りの時にかかわるものです」。(ダニエル書81517節 口語訳)

「vision」の訳が「幻」なんですねえ。幻というと幻視、幻聴、幻覚のようにたちまち消える儚げな絵空事に聞こえませんか?でも「vision」にその儚さはなくラテン語由来で「見たもの」という意味です。

「vision」にはこんな特徴が…

  • 人間が見ようとして見るのではなく、向こうから現れる。
  • 未来を告げる。
  • 理性、論理、経験則による理解を超えている。

なんじゃ、そんなもん役に立たない?

いや、そうとも言えませんよ。私はこんなふうに考えています。「天ではすでに実現しているが地上ではまだで、これから実現されるべきこと」。「天」では抹香臭いという方は「想念」「理想の世界」に置き換えてみてください。

天はあなたを選んでどんな光景、ヴィジョンを見せ、任せているのでしょう?

未来のヴィジョン実現のために行う活動がミッション(前稿のとおり「遣わされる」の意)。南アフリカのハウテン州で精神的外傷を負う子どものケアにあたる団体があります。ここのヴィジョンとミッションがまさにそのとおり。

ヴィジョンの実現にはパッション、心燃やさねばならぬことも教えてくれます。

Vision
Our passion is to ensure the optimal development of traumatised children in need of care.

Mission
From a Christian frame of reference, to care for, develop, empower and reintegrate traumatised children in need of care (as defined by the Children’s Act) and where needed, their families through appropriate care models and therapeutic programmes, to enable them to function independently and to contribute to society.

 

子どもたちのトラウマケアを担うエイブラハム・クリール・チャイルドケア

 

 

途方もない翻訳を、福島の若い人たちと一緒に完成したい

あなたはどう仕事を決めるの?

小さい頃から憧れていた?よかったね。

なりゆき?家族のため?それもアリだよ。

私?

それが不思議で…振り返れば誰かに導かれていたと思うことばかり。

大方のひとが将来の仕事を決める学生の頃、私はまさか自分が通訳になるとは思っていなかった。当時の通訳は、まあ今でも大方のイメージだけど、才気煥発の女性がブースでヘッドフォンかぶって通訳独特の口調で…。で、通訳でなければ会えないようなすごい人に出会えたって喜んでいて…なんだそりゃ、あなたはすごくないの?みっともない。私には関係ないと思っていた。

でも、就職カタログにあるほかのどの仕事も私の心に響かなかった。すでにカタログに載っている仕事の中に私がやるべきことはない…と思った。

まだ湯気みたいな形ないものを、形にする役目なのかな?そんな気がしていた。

そのころ私が夢中だったのは、言葉の世界をひもとくこと。17世紀の英詩の、一見わけわからない言葉の羅列を丁寧にひらいていくことで、驚くような映画が心に生まれる。それが面白くて1日何時間Oxford English Dictionaryの前で過ごしたことか。言葉という不思議な世界といつも共にいたいと願っていた。一生辞書の前でも幸せだった。

それからいろいろな山谷があって…!!!

なんと今は通訳になって、通訳を教えている。
「こんなに四角くも丸くもない通訳ってできるんだ」
「なんだかこんなのは初めて聞いたけど、これが本来の通訳。」
そんなふうに言ってもらうたびに嬉しい。

そしてびっくりした。25年ぶりに相馬にゆかりの深い恩師、齋藤和明先生による「楽園失われて」。なんと、いまの私の通訳の軸、従来の通訳養成には見当たらない軸がすでにここにあったのです!

日本では「失楽園」として知られるミルトンのParadise Lost。でも先生は「楽園失われて」とイメージの順のまま。学生時代は、先生の訳はのんびりして先生らしいけれど、なんだかおかしいなあ、と思ったくらい。イメージの順を狂わせることがどれほど情報を、映像をゆがめるか、痛感したのはずっとあと。世の通訳、翻訳にふれておやおやまあまあと思ってからのこと。

改めて読むと「音声を文法(カメラ設定)に基づいてイメージに置き換える」「イメージの順を最大限守って訳す」そのもの。

Of man’s first disobedience, and the fruit

Of that forbidden tree, whose mortal taste

Brought death into the world, and all our woe,

With loss of Eden till one greater man

Restore us and regain the blissful seat,

Sing heavenly Muse that on the secret top Of Oreb, or of Sinai didst inspire

That shepherd, who first taught the chosen seed,

In the beginning how the heavens and earth

Rose out of chaos:

 

 

どうか、ひとの初めての服従拒絶の心について、あの果実について

戒められたあの木の過日味わう静べきものの、致死の、行為が

この世に資、そして我らの苦しみ悲しみのすべてをもたらし、

イーデンをも失わせ、だがうあがて一人の大いなるひと、われらを

かつてのわれらに再生させ、この上ない喜びの座を再獲得するが、

歌ってくれ、どうか、これらのことについて、天の詩神よ。あなたは

孤高の山ホウレブ、またはサーイナイの頂で、むかし

あの羊飼いに霊感を吹き込んだ方。その羊飼いとは

選ばれた種族に、始めに天と地、いかに混沌より現れ出でたかを

初めて教えたそのひとだが…

(ミルトン「楽園失われて」巻一、巻二 齋藤和明訳 国際基督教大学学報 人文科学研究より

和明先生のたまわく。

この詩の詩調は、英詩の英雄詩体である。脚韻は用いていない。…中略…実は、われわれの英語で書かれた最もよい悲劇作品も、以前から脚韻を使っていない。脚韻そのものは、それだけでは、明敏な耳すべてにとって、瑣細なものであり、真の音楽性がもたらす喜びを生まないものだからでさる。音楽性からの喜びは、ふさわしい音調、しかるべき長さの音節、そしてそこに込められている意味が、一行から次の一行へと、それも一様にではなく、引きつがれ伸び広がってうくことに存在するので、それ以外にはない。行の末尾が同じ音を反復させることに存在するものでは決してない。…中略…それゆえ脚韻をここで採用しなかったことは欠陥とみなされるべきではない。むろん低俗な読者には、そう見ててもしかたないが。これはむしろ、あのわずらわしい、現代詩が受けている束縛、つまり脚韻からの自由、英雄詩のために回復された自由の例として、かつて古代には確かにあった自由の例として、しかも英詩の場合では最初の一例として受け取られ評価されるべきものなのである。」

なんだ、私はサイマルやNHKの先を一人で走っているつもりだったけれど、ずっと前に出会っていたんだ。

困ったことに和明先生は12巻中、6巻以降の訳を残してご帰天。

途方もないことを想っています。和明先生の心のふるさとは相馬。和明先生の恩師斉藤勇先生のふるさとは福島。だから私は福島に学恩があります。福島の若い人たちとこの続きをやりたい。これは途方もないこと。歴史、宗教、語法…通翻訳技術…一気にとりくむことになる。

でもね、こういうことのほうが、明日役に立って明後日だめになるようなことに血道を上げるより、よっぽど力になるんですよ。あとに残せるんですよ。

福島の人たちは「までい」な仕事をする。その「までい」さを活かして、売ってもなくならないもの=通訳、翻訳を売る道もあるよ、と若い人たちに伝えたい。

というわけで、言葉の世界に魅了されながら、現行のカタログに満足がいかない福島の若い人に会いたいです!Oxford English Dictionaryのある図書館で逢いましょう!どこかな?

ぜんぶで30巻あまり…

愛は学校の手洗い場である

ある教育研究グループではシュタイナー教育について海外講師を招いたセミナーを数多く主催。通訳としてずいぶんお世話になりました。

そんなある日、不穏な空気。リーダーとメンバーの間がぎくしゃくしていたのです。

「彼は自分で言い出したこと以外はやらせてくれないんだよね。」
「もっとこうしたら、と提案すると『もうやってる』って怒る。」
「私なんか『じゃあ君がやれば』って言われた。」

―どうしてほしかったの?

「リーダーなんだからグループ全体にとってこのアイデアでいいか俯瞰したうえでyes, no出してほしかった。彼を責めるつもりなんかなかったし。」
「どうして個人的に反応しちゃうんだろうね。なんか戦闘態勢でびびってる。」
「愛情不足なんじゃない。難しい家庭だったんだって。」

ーねえねえ、リーダー論までは立派だったのに、だんだん話がずれてるよ。プライベートな詮索はいやだなあ。それに愛情不足って簡単に言うけどさあ、人の心に簡単に土足で踏み込む人が多すぎるよ。

愛って学校の手洗い場みたいなもんだと私は思ってる。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、学校の先生、友達、近所のおばさん、習い事の先生、魚屋のおじさん。みんなそれぞれ口径の違う蛇口。

なつかしいなあ~

でも蛇口が水源じゃない。水源はもっと共通の大きなところ。井戸?水道なら屋上のタンク、市の浄水場、横浜なら山梨の道志村、雨、雲…

だから蛇口ひとつバカな男子が消しゴム突っ込んで詰まらせたとしても、隣の蛇口からブヒャ―ッと出てくる。

ひとつ詰まってもどこかが開いている。全体として足りるようになっている。ぜんぶ詰まったらトイレが洪水か貯水タンクが破裂だ(自分でもよくわからないこと言ってますが)。

だから、もし彼が詰まった蛇口の前で被害者の顔で立ち尽くしているように見えるなら…まずみんなが近くでブヒャーッと噴水するほうが先なんじゃない?

大丈夫、渇水はしないから。蛇口の内側きれいになるかもよ。けちけちしてると干からびちゃうよ。

 

 

似て非なる、シュタイナー教育を「取り入れる」と「基づく」

―シュタイナー教育ってなんだか窮屈。シュタイナー教育だけを純粋にやるより、自分たちに合っているところだけ「取り入れる」のがいいと思うんです。

その窮屈ってどんなところ?

―テレビ見ちゃいけないとか…

あはは、そりゃテレビは出てなんぼだものね(笑)。

でもね、「取り入れる」には気をつけて。いくつか「取り入れている」教育研究所を見かけたのだけれど違和感を覚えてね。部分的にいろいろなものを入れている。剣道、座禅、モンテッソーリにシュタイナー、英会話にリトミック。

―あ、それは変なの、わかります。気持ち悪い。なんでかしら。私たちがやりたいのはそういうことじゃないんです。

でしょ?こういう「取り入れ」タイプの態度がなんだかいやなのでしょ?バイキングでずらりと並んだ食べ物を選ぶみたい。

結局、バイキングの大食いさんは自分の胃袋優先。自分の枠にあったものを選ぶ。あるいは自分の枠を壊す力があるものに出会っても関わりが浅い。

見立ては簡単。浅いタイプが「取り入れた」メソッドの専門家を超える洞察に至ることはほぼ皆無。わかったようなことを言っても洞察ではなく単純化。「なぜ」を繰り返すとたちまち崩壊。

いま窮屈に感じているものの正体はなに?理由のはっきりしない習慣?変化を恐れる仲間?近隣の幼稚園、学校との純粋さ比べ?訳文の難解さに変に麻痺していること?

ならばシュタイナーのせいにするのはとんだ八つ当たり。

いっそマニュアル、ドグマ化しがちな「教育」という具体実践はいったんわきに置いてみたら?しばらくものの見方、考え方といった「抽象」、哲学に重心を移してみたら。

私も3度途中で挫折した「自由の哲学」が今は面白くて仕方ない。1つ読むならこれだ、と何人もの方にすすめられました。シュタイナー自身もそう言っています。音読すると心躍ります。

いちどひとつに決めることです。一度に二つの山頂には登れない。7合目あたり横にうろうろするのはヤギさんかおサルさんです。

シュタイナー医学を学んだ漢方にも詳しい薬剤師さんが面白いことを言っていました。漢方ではなぜこの薬がこの症候に効くのかもちろん独自の説明がある。でも限界もある。例外的症例もある。昔だったらそこから先は行けなかった。でも今はシュタイナー医学のおかげで理由がわかるようになった。だから応用がきく。長年親しんだ漢方を捨てることなく、より自由に活かすことができる。だから有難いって。

この方は「取り入れた」のではなく「基づいている」。いったん自分の枠をはずし、それまでの蓄積を手放す覚悟で飛び込む思いをした。

その結果、逆にそれまでの専門を失うことなく、突破口が開けた。むしろ専門家がいき詰まるような「なぜ」の先に行ける。かえって自由になったって喜んでいる。

さてさて、シュタイナー教育関係の集まりでよく唱えるシュタイナーの詩、 「Beim Läuten der Glocken。鐘が響くとき」難しいという声を聞いたので試訳してみました。

実は私の本棚は英語関係の愛すべき稀覯書でいっぱい。ドイツ語スペースはその1割もありません。でも増やす気もありません。そのかわり、ドイツ語に優れた友人を頼りにしています。ありがとう!この場を借りて感謝します。

さて、本当にシュタイナーがわけわからないこと言っているのでしょうか?

「美しきを讃え、まことを護り、とうときを崇め、よきを為すと心に決める…」

綺麗な全体PDFは下記よりどうぞ。

こんな感じです。続きは以下のフォームよりご覧ください。すぐにDLできます。

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「一度は通訳に憧れたけれど…」諦めるのはまだ早い

「私、学生の頃通訳に憧れてたんです。ダブルスクールもしたんですが…」

―あら、そうだったんですね。

「何年も通ったんですけど、結局通訳にはなれませんでした。」

―じゃあ、今は何を?

「自宅で児童英語を教えています。自分の子どもも小さいのでなるべく一緒にいたいですし。」

―ああ、それはいいですね。

「でも…ずっとこのままでいいとも思っていないんです。」

―通訳を諦めきれていないのでしょう?

「ええ」

もしかして、通訳レッスンはこんな感じだったのでは?

教室で先生が録音を少しずつ再生、そのたびに一人ずつあてられて訳す、…なんだか上手くないな、と思いながら訳を言う。先生がちょっと直す。おおっ、よくなったと思う。でもどうしたら先生がいなくても先生のような訳ができるようになるのかなかなか見えてこない。で、自分は日本語力がないのだろうと諦めた。 

やっぱり。

フューシャの花。ウェールズにて。

訳の添削も決して無駄じゃない。でも、結果を操作して結果を改善するのは大変。もっと自然な方法がある。準備、仕込みを調えておのずとよい結果を得るという方法。言ってみれば当たり前だけど。

え?準備、仕込みが十分かどうかわからない…?

では、おたずねします。英語、日本語、それぞれで宴会芸として5分以上語れる演目はありますか?

5分以上しゃべる、じゃありません。古典的演目を一字一句たがわず語るのです。

例えば「外郎売の口上」(歌舞伎十八番より)、「祇園精舎」「那須与一」(平家物語)くらいのまとまりがあるものです。小倉百人一首はひとつひとつが短いので除外。「知らざあ言ってきかせやしょう」は小手試しにはいいけれど、短い。

英語ならParadise Lost (John Milton)出だしの26行にわたるInvocationや短くてもWordsworthDaffodils。それからLincolnThe Gettysburg Address 

え、そんなレパートリーない?じゃあ英語話すとき頭の中で英作文することはありませんか? 

ある?…やっぱり。その状態では苦しいです。早く演目を体得、暗誦してください。

このくらいの分量になるとアタマの黒板に文字を思い浮かべている場合じゃなくなるんです。カラダから言葉が勝手に沸き上がるような感覚に変わる。まるで飛行機が雲の上に出るように。 

雲の上に出るのは自力で!ドーヴァー海峡を西へ。

そのためには自分の時間で繰り返し練習すること。私が代わりになることはできません。ずっとそばにいてやいのやいの言うわけにもいきません。自分でやってください。きっとできます。100回やるまで「できない」と言わないで。100回やってできなかったら1000回やればいい。自分でやることなのでお金もかかりません。それで次元が変わる。こんな面白いことあるかしら。

訳文添削が生きるのはこのあとです。 

通訳は神ワザでもなんでもありません。理に適った方法で学べる人間らしい技です。何よりひとの話をじっくり聴くのが楽しみになります。第一歩はまとまりのある演目を体得すること。あなたのお気に入りを聞かせていただくのを楽しみにしています♪

 

 

ボランティアの意味は「無償奉仕」?

あなたの周りにこんな人はいませんか?
「ボランティアって無償奉仕」
「仕事としてお金を頂くほどのレベルでないのでボランティアで…」
両方ともちょっと違います。

volunt- はラテン語の「意志」に由来。ボランティアは「自らの意志により行動する者」という意味。だから「志願兵」という意味にもなる。教室で先生が「誰かやってみたい人は?」と呼びかける時も「Any volunteers?」というのがお決まり。

報償の有無やスキルのレベルのことではありません。

ストックホルム近郊の農場。ボランティアが大活躍。

どんな事業も始まりはたった一人のボランティアかも。まだ世間は気づいていないけれどやがて喜ばれるはず、と信じて始める。ときには無償ボランティア以下の局面もある。でも、世間が価値を認めれば立派な有償ボランティアになる。世間からの報償を再投資、分かち合えるようになる。

だから、本当に必要で大切と信じていることがいつまでも完全無償ボランティアなのは心配。それで気持ちが晴れ晴れとしていればいいけれど、苦い気持ちをひきずっていませんか?仕組みそのものに無理がありませんか?海外の方法をそのまま持ち込んでいませんか?それって誰のため?

こういうこと、自主教育の場でよくあるようですが…大人の疲れを子どもは感じとりますよ。

報償は現金に限りません。参加すること自体がステイタスになる、畑の野菜を穫り放題、なんていう場合もあります。

人が価値を生み出したのに何も動いていないのは…私なら落ち着きません。何らかのお礼をして、そのお礼をさらに活かしてもらいたい。あなたところは大丈夫ですか?

実は私、学校運営には目利き、一家言ございます。それは通訳道場に活かしますが…お困りの折はご一報を。

”In terra pax hominibus bonae VOLUNTATIS”
地には平和、志善き人にあれ。
(ルカ 2章14節)

 

「守破離」をBBCでアクラム・カーンに聴く―学び始めたら自由より大事なこと

外国語でも、楽器でも、学び始めるとカメの歩みがもどかしくなるときがあります。毎日の少しずつの積み重ねなんて古い精神論じゃないか…って。

「意識が変われば…」「…を3時間でマスター」

そんなフレーズをきくと、今の自分のやり方がいかにも要領悪く、効率悪い気がしてくるものです。

大丈夫。そんなことありません。

意識を調えたり、全体を短時間で俯瞰したりするのは積み重ねに先立つ準備。あくまでも準備。積み重ねの代替ではありません。大げさな言葉に騙されないで。焦ることはありません。

きっとあなたがすでに習慣にしていることのなかにとてもよいことがあるはず。それを少しずつ育ててね…といいたいけれど、べらぼうに増やし、続けることです。

って、自分の楽器修行を励ましている気がしてきました…。

アクラム・カーンさんは振付師。テロの犠牲者を悼むAbide with Meという作品でロンドン・オリンピック開会式を沸かせました。

いいこと言ってくれるじゃない。この眼差しと意外な声の組み合わせがたまりませぬ♬

アクラム・カーンさん、BBC HARD Talkにて。
画像をクリックすると別窓でビデオ視聴できます。カーンさんの言葉、英日両方で書いておきました。ビデオと並べてご覧ください。

何て美しい方♡

I think, in any form, if you really want to
have a profound impact on it
you have to become obsessed by it.
And I do believe in deep down
at whatever technique it is,
it has to imprison you.
…You have to learn it so much
You have to learn about it so much
You have to do it so much
that eventually in that imprisonment…
you find freedom out of that imprisonment.
You find freedom out of that form
that you’ve been trying to perfect.
Yeah, pain, of course.
Everything is a pain.
Everything is a hard work.
If you want to be good at anything,
you have to work hard,
you have to sacrifice.
If you feel it a sacrifice,
that’s already a problem
If you consider to…for you to be what you are
you have to put in many many hours of work.
you have to do it.
you have to go through it.
思うんですが、どんな表現形式でも
本気で深いインパクトを与えたいと思ったら
取り憑かれたように夢中にならないとね。
本当に思うんですが、どんな技芸であれ
その深いところで
自分を囚われの身にしないと。
べらぼうに習い
べらぼうに知り
べらぼうにやるからこそ、やがて
その囚われのうちに…
自由になるんですよ、その囚われから。
自由になるんです、その表現形式から。
完成させようと努めてきたその形式から。
ええ、辛いですよ、もちろん。
何事も辛い。
何事も取り組めば大変。
何であれ上手くなりたかったら
しっかり取り組まねば。
犠牲を払わなくては。
それを犠牲と感じる時点で
もう問題ですけどね。
その道でそれなりになりたかったら
長い長い時間をかけて取り組まねば。
やらなくては。
やり抜かなくては。

 

 

 

英文科卒が英語関係の就職にこだわるより大事なこと

「英文科卒業するので、TOEICもっとがんばって、やっぱり英語関係の仕事かな、と思うんですけど」

何年か前のこと。なんとなく就職の話になった3年生のRさん。にこにこしているけどどこか無理している感じ。ふと眼差しが陰りました。

―それ、あなたの心の声?
「やっぱり英文科だし。」
―あなたの声か、誰かを気にしてるのか訊いてるの。
「え…」
―お家のかた?
「あ…」
―そう期待されてるの?
「いえ、そんなことはないです。でも私立に通わせてもらって英文科出るのに英語を活かした仕事じゃないと、学費が無駄になっちゃうというか、恩返しできないというか…申し訳なくて。」
―そう言われたわけじゃないんでしょ。
「はい。」
―お家の方はあなたがそう思っていることをご存知?
「いいえ、たぶん知りません。」

おいおい。

 

私があなたのお母さんだったら何を願うかな?
仕事の世界ではあなたはまだ赤ちゃん。でもどんどん自分の手を離れていく…。 

幸せでいてくれますように。

つまり…
夜はぐっすり眠れますように。
ごはんをおいしく食べられますように。
ご一緒させていただく方々とお互いを大切にできますように。

私という避難所を覚えていてくれますように。

他に何がある? 

確かにお母さん世代は時代遅れなこと、細かいことも言うかも。大企業がいいとか、給料はいくらとか、保険や年金とか(病気になるために生きてるのかね)。そりゃそうだ、心配だもの。 でもそれは表面的なこと。

心の奥ではあなたの幸せを一番に願っているはず。

そうでなけりゃそれはそのとき(!)。本気で愚痴りにいらっしゃい。

英文科どうのこうのは大したことじゃない。過去の足し算で今の自分を縛らないで。それじゃ未来がいびつになる。 

まあ、ほんとに社内通訳・翻訳レベルのスペシャリストとして就職したくてしょうがないなら話は別。まだまだインプットが圧倒的に足りないし、あなたは余力がある。TOEICの針なんか振り切って。

じゃ、その折は虎の穴で。

 

堂々巡りの話し合い、あの方はいましたか?

 教師、保護者みんなでつくるというシュタイナー教育。トップダウンの園長・校長はいない。お仕着せのPTAもない。…と喜んで子どもを通わせているはずの友人が浮かない顔。

「こんなに話し合いに時間がかかるなんて…」
「いつも発言する人が決まってる…」
「結局教師の発言が尊重されて…」

私はその場にいなかったので何とも言えません。でも気になる。その話し合いにあの方はいたのかしら。あの方?噂の●ちゃんママ?いえいえ、違います!

それに「みんなでつくる」って?

まさか、一人ずつ順番に誰もがすべてのことに発言し、等しく重んじられるということ?

まさか、お金アレルギーのある理事がイベントの参加費を下げようとしたり…
保護者が授業内容をはじめから色眼鏡で見て批判したり…
教員が生徒の家庭生活を批判したり…
これらを真に受けて互いに釈明したり…
みんなでチラシデザインうんぬんしたり…

それはたいへんだ。

会議で大事なのは「自分の役割」をよりよく分担するために他者の事情に耳をすませること。「ああ、そちらがそういう事情なら、私はこうしよう。」と自分の行動を修整、確認する。あちら立てればこちらが立たぬ、のときは議論する。

会議が不思議に速い学校があります。ファシリの工夫だけじゃない。もっと深い理由があります。

ここからは「ついていけない」という方がいらしてもごもっとも。どうぞご無理なさらず…

参加者は自分たちだけだと思っていませんでしたか。
自分たちだけで正解を決めようとしてはいませんでしたか。

そこにあの方―大いなる存在―はいましたか。

あなたの心の中に大いなる存在はいましたか。

会議が速い学校はなぜかキリスト教の学校でした。誰もが自分の意見の不完全さをわきまえていた。あの大いなる存在ならどう考えるだろうと思いめぐらしていた。人の話に耳をすませる余裕があった。実は早く帰って夕飯にしたかった!(もしかしたらいい加減だった!)

「その方」の名前は神様でも仏様でも、宇宙でも宇宙人様でも結構。(「自分たちを俯瞰する視点、スペース」だっていい。)シュタイナー様はやめたほうがいいと思います。ご本人様に迷惑です。オシラサマもちょっとねえ。

 For where two or three gather in my name, there am I with them.”
Matthew 18:20) New International Version (NIV)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 1820節)